blog.livedoor.jp[抜粋]

住井すゑ『21世紀へ託す-『端のない川』断層-』1992年など

 a)「天皇制は古いのかというと,古いんじゃない。明治になってからのものです。それまでの天皇というのは,京都にいた時には惨めな暮らしだったんです」。
 註記)住井すゑ『21世紀へ託す-『橋のない川』断層-』(解放住井すゑ画像出版社,1992年,116頁。
 出所)右側画像は,http://digital.asahi.com/articles/ASJ3454P9J34OIPE019.html

 住井すゑは,明治政府が明治4〔1871〕年に一代神武天皇の陵墓を造築したのち,明治40〔1907〕年から明治45〔1912〕年に,さらに陵墓をそろえようとした時期に関して,こう語っていた。

 b)「この時期にね,また天皇陵がめっかったと,でまためっかったんだと,学校で噂出るわけです。それがどこも未解放部落なんです。つまりエタ部落でめっかった。エタ部落には粗末ながら,小さなながら,前方後円墳があったんです。一番の疑問わね,自分のところはエタ部落であると,そこに御陵があると,昔天皇は部落に住んでいたのか」。
 註記)住井すゑ天皇陵の真相』三一書房,1994年,58-59頁。

 さらには,こうも語っていた。

 c)「何で『部落』と言ったことを,後悔しなくちゃいけないんですか。それは,『部落は劣等』という差別意識があるからのことでしょう。部落も何もみんな,それはつくりごとであって,本来人間は平等だという確たる哲学があれば,そこで頭掻く必要ないんですよ」。
 註記)住井すゑ『さよなら天皇制』かもがわ出版,1989年,46頁。

 d)「死ぬまでね。天皇と命の比べっことおもっていましてね。私が先に死ぬか,天皇制を先につぶすかどっちかとおもってね」。天皇制くらい人道に外れているもの,理論的に辻褄の合わないものはないです。いつまでも天皇を置いていることは,日本の恥辱ですね」
 註記)住井すゑ / 福田雅子『「橋のない川」を読む』解放出版社,1999年,72頁。

 ここで,住井すゑが指している天皇とは裕仁のことである。住井の生死年は,1902年1月7日~ 1997年6月16日であった。なお,住井は被差別部落出身ではない。そうだ京都行こう画像

 e)「そうだ  京都,行こう。」JR東海が1993年から実施していたキャンペーン)

  「そうだ  京都は,今だ。」(2016年夏に新シリーズとして開始したキャンペーン)

 ⑦ 加治将一・出口 汪『日本人が知っておくべき この国根幹の重大な歴史』(ヒカルランド,2015年)など

 1)なぜ孝明天皇を祀る神社がなかったか

 ◆ 加治・出口の同書に,つぎのように聞いてみる。--「京都にある泉涌寺(せんにゅうじ)は天皇家菩提寺なのに,今の天皇はお参りに行かないという話を聞いた」が。

 加 治:「泉涌寺は代々の北朝菩提寺ですから,祀られているのは孝明天皇までで終わり,それ以降は祀られていません」。「それよりも,孝明天皇が御祭神の神社がなかった」。「神道のトップ,天皇なのにこれはあり得ないことです」。

 出 口:「明治天皇の実父ですから,当然墓参りにも行くだろうし,祭神として祀るはずですが,それがないというのは普通ではない」。

 加 治:「玉鉾神社が正式に孝明天皇が祭神として登記が認められたのは,戦後も戦後,1954年(昭和29)です。実に死後87年間,許可が下りなかった。それをつくった旭形〔亀太郎〕の最期は,怪しげな死に方です」。
 補注)旭形亀太郎(あさひがた・かめたろう)は玉鉾神社を建立した人物である。孝明天皇のための勤皇力士隊であったこの旭形亀太郎は,初代宮司となって非業の孝明天皇を祀った。玉鉾神社については後段で詳しい関説を紹介する。

 出 口:「明治天皇は現人神と言われるぐらいの力があったんだから,その実の父はものすごく奉るはずですよね。それが自分にとっても権威になるんですから」。

 加 治:「ええ,幕末の最後の天皇です。神社は天皇の専売特許なのに,徹底的にないがしろにされている。それこそ不敬ではないですか」。

 出 口:「今,流布されているのは,愚昧で外国人が大嫌いで,時代を見通せなかったという孝明天皇像ですよね。明治天皇を神格化するわりには,そのお父さんのことはボロクソに言っている」。「学者はもっときちんと調べるべきですよね」。

 加 治:「この醒め方は極端ですよ。今回,宮内庁主導で『昭和天皇実録』が完成しましたが。何を書いているのかわからないけれども,記録の切り貼りコピペでしょうな」。
 註記)加治・出口『日本人が知っておくべき この国根幹の重大な歴史』203-204頁。つぎに画像でかかげるのは,この本のカバー(後部)と本文205頁である。(画面 クリックで 拡大・可)
  加治・出口カバー加治・出口205頁
 孝明天皇については「暗殺されたという説」があるが,これを「完全に否定できる説明」も,いままでなされたことがない。つぎの画像による文献紹介は、出版社が毎日ワンズで,右側が2015年1月,左側が2016年2月の刊行である。
原田伊織2著表紙

 2)玉鉾神社の説明-なぜ孝明天皇を祀る神社がなかったのか(続)-

 a) 鉾神社は,愛知県知多郡武豊町にある明治天皇の父君,孝明天皇が祭神である。勤皇力士隊の旭形亀太郎が建立し,初代宮司となって非業の孝明天皇を祀った神社である。なお,孝明天皇の父君であった仁孝天皇は京都の後月輪陵に仁孝天皇陵がある。

 なぜ,京都で生まれ,京都で育ち,京都で崩御した孝明天皇を祀る神社が愛知県の片田舎に存在するのか? 

 なぜ,明治32〔1899〕年まで創建されなかったのか? 息子であるはずの明治天皇を祭神とする明治神宮は大正9〔1920〕年に創建されている。

 なぜ,何故祭神として「孝明天皇」が正式に登記されるのに昭和29〔1954〕年までかかったのか?

 なぜ,天皇を祭神とする玉鉾神社が,創建当時よりも規模が10分の1に縮小されたのか?

 通常神社は,神社本庁都道府県神社庁により独自に定められた制度(社格)があるのに対し,この玉鉾神社はなぜ,無社格なのか? ちなみに伊勢神宮は別格〔S〕,出雲大社明治神宮熱田神宮は勅祭社・官幣大社〔A〕。

 普通に考えたら,まったく説明がつかないことばかりである。

 b) その答えは,正統天皇を立てて蜂起する勢力を押さえるため,国民を騙しつづけるため,自分たちが皇位を奪った正統天皇北朝)にスポットが当たるのを恐れて,伊藤博文たちの明治政府や,その後の為政者達が隠蔽・封殺しつづけたところにみつかる。
 補注)伊藤博文はいまふうにいえば「テロリスト」の履歴をもつ謀反家であった。首相にまでなった人間だからとして,その事実は消せない。

 主に薩長が,英米仏を後ろ盾に,公武合体による攘夷論者であった孝明天皇と将軍徳川家茂を殺し,次代天皇であった睦人親王をすり替えて,日本の実権を握ったクーデタ-こそが明治維新であり,現在までその一味の末裔による日本の支配が続いていることがすべての根源といえる。

 つまり,それまでの為政者から,玉を握ったことで実権を奪い取った1%が手を替え品を替え,99%の国民を騙しつづ続けてきたのが,現在までの日本ということなのである。

 伊藤博文孝明天皇を殺し,その子睦人親王をすり替え,明治天皇に仕立てた一味(明治天皇大室寅之祐」も含めた田布施グル-プ)が,その後の日本の実権を握り,その血と流れを汲む自民党清和会とそのグル-プによって支配構造が続いているため,国民の安心安全よりも自分達の保身・権力・利益を優先させるのはある意味当たりまえである。

 c) また,それらをはじめとする数々のスキャンダルと利害関係で,偽ユダヤ人をはじめとする外国勢力と繋がっているため,国民の安全や生活よりも外国の勢力が利益になる政策を進めるのも,これまた当たりまえである。

 この構造を理解していないとデモをして一時的に戦争法案を止めたとしても,別の方法で目的遂行してくるのが為政者たちである。たとえば,同じエベレスト山頂をめざ指すにも,ル-トも考えずやみくもにめざ指すのと,ル-ト・天候・メンバ-構成・工程を綿密に計画してめざすのでは,成功率がまったく違うのと同じである。

 そして,この構造を壊そうとして嵌められたのが田中角栄であり,小沢一郎だと理解していい。現在,その小沢一郎の薫陶を受けた山本太郎が,まさに命懸けの孤軍奮闘を国会で繰り広げている。
 註記)https://ja-jp.facebook.com/khosoya1/posts/855862724504799 参照。文意を損なわない範囲内で補正した。

 3)テロリストのリッパな「はしくれ」-伊藤博文

 --江戸時代末期(幕末期)の国学者である塙 忠宝(  “はなわ・ただとみ” ,塙保己一  “ほきいち”  の四男)は,伊藤博伊藤博文若いとき画像文と山尾庸三によって暗殺された。渋沢栄一が述懐しているが,直接聞きだした話であった。

 公(伊藤)は,先づ山尾庸三と共に国学入門と称し,塙を麹町三番町の住宅に訪ね、その面貌を見定め置き,文久二年十二月二十一日の夜,塙が他所よりの帰宅を待受け,その住宅附近に於いて国賊と呼びかけ,これを斬殺した。
 註記)http://www.tmtkknst.com/2013/04/17/伊藤博文と山尾庸三が塙忠宝を斬殺したこと/

 出所)右側画像は若きの日の伊藤博文

 伊藤博文の遺品には,手元の部分を落として約3分の2に縮めて使用していたらしい大刀があったが,これには,半世紀近くも経った血糊がこびりついていた。伊藤博文明治憲法を制作した中心人物であった。伊藤が中心になって,井上 毅(いのうえ・こわし),伊東巳代治(いとう・みよじ),金子堅太郎(かねこ・けんたろう)らにより,その憲法は作成された。